ワーキングマザーとして、 ” IC ” という働き方を選択。しなやかに我が道を行くプロフェッショナルの考え方とは

作成日:2018年3月12日(月)
更新日:2018年6月13日(水)

子育てと仕事を両立させたい。「独立」とはそんな彼女が考え抜いた末にたどりついた選択でした。

みらいワークスがお届けする「プロフェッショナリズム」、今回のインタビューは池照佳代さん。
「インディペンデント・コントラクター(IC)」とは、「専門性の高い分野で複数の企業との請負契約を結んで活動する独立・自立した個人」を表す言葉。働き方改革が叫ばれ始めた最近でこそ広く知られるようになってきましたが、10数年前はなかなか認知されづらい存在でした。
そんなICという働き方を12年以上にわたって続けてこられ、現在では特定非営利活動法人インディペンデント・コントラクター協会(IC協会)の理事も務めていらっしゃる池照さん。昨年9月に同協会と弊社で共同開催したイベントでもご一緒した池照さんに、今回改めてインタビューをさせていただきました。女性ならではのライフイベントを良いきっかけに変えながら、軸をしっかり持ってキャリアを築いてこられた池照さんの、しなやか、かつパワフルなストーリー。女性のみならず、すべてのビジネスパーソンに勇気を与えてくれるインタビューとなりました。

池照 佳代

今回のインタビューにご協力いただいたプロフェッショナル人材・コンサルタント

英会話学校での講師・学校運営を1年経験後、1992年から2005年まで、マスターフーズリミテッド、フォードジャパン、アディダスジャパン、ファイザー、日本ポールにて一貫して人事を担当。2006年、有限会社アイズプラスを設立。企業の人事・経営企画業務支援を中心に、人事制度(評価・報酬・教育・組織)設計、社内外コミュニケーションデザインの構築と実行、コーチング、EQ開発、マネジメント研修設計・講師業務等を担当。外資系・国内企業双方の経験を生かしたタレントマネジメント(人材・組織開発)やサクセッションプラン(経営幹部の選抜や育成、後継者育成)には特にオーダーが多く、リピート契約多数。   ◆有限会社アイズプラス:http://www.isplus.co.jp/ ◆IC協会とみらいワークスの共同開催イベント:https://mirai-works.co.jp/topics/news051/

池照 佳代

英会話講師から人事のプロフェッショナルへの転身

 

インディペンデント・コントラクター(以下、「IC」)として多くの企業の人事制度設計や組織開発、人材開発に携わっていらっしゃる池照さんですが、キャリアのスタートは英会話学校の講師からだったとお聞きして、とても意外に感じました。そこから人事としてのキャリアをスタートさせるまでの経緯を教えていただけますか?

池照さん(以下、敬称略):高校卒業後にアメリカに渡り、第二外国語教授法の資格を取得したのですが、もともとはビジネスの世界に興味があったのです。帰国後は企業に就職したいと思っていました。ところが、帰国のタイミングが遅かったことで就職活動の波に乗り遅れてしまったのです。当時はバブル絶頂期の売り手市場で、自分も当然"OL"になれると思っていたのですが、日本の企業に何社問い合わせても「新卒採用は終わっています」の一点張り、ジャパンタイムズに掲載されている求人広告20件すべてに応募しても全滅で、「これはまずい!」と。

 

そこで、英会話講師の仕事ならと方向転換し、入社したのが英会話学校のECCでした。当時のECCには就業時間外に社内のコースを割安で受講できるシステムがあり、仕事の傍らそのシステムを活用して秘書検定や日本語ワープロの資格を取りながら「やはりビジネスの世界に挑戦したい」と思っていました。1年後、再度就職活動をしてマスターフーズリミテッド(現マースジャパンリミテッド)に転職しました。

人事アシスタントという立場で入社し、在籍していた6年間で人事の業務を一通り経験させていただいたのが、人事としてのキャリアのスタートでしたね。

 

 

なるほど。その後、フォードジャパンやアディダスジャパンなど複数の外資系企業を経験されたそうですが、そこではどのようなお仕事をなさっていたのでしょうか。

池照佳代_インディペンデントコントラクター協会池照:マースジャパンでは現場の若手社員にもかなりの予算や裁量権を与えてくれたので、20代前半から自分で裁量をもって役割を果たす仕事を進める経験ができたことは非常にありがたかったです。でも、長く働くうちに「他の企業ではどのような考え方に基づいた人事が行なわれているのか知りたい」という良い意味での欲も出てくるようになりました。

 

ちょうどその頃、後にフォードジャパンで私の上司となる方にお会いする機会があり、「フォードの人事は、世界中にいる数十万人の従業員に対して一貫したコンセプトのもとで各国の現場に合わせた運用がされている」という話に興味を持ち、より大規模な人事マネージメントを勉強したいとフォードジャパンに転職しました。フォードでは子会社の人事担当に加え、アジアパシフィック地域を中心とした、報酬マネジメントという領域で海外の社員と共にディスカッションしながら学びを得られるようなプロジェクトにも参加させていただき、非常に勉強になりました。その後、前職の先輩からのお声がけもあり・・・日本支社を立ち上げて数年のアディダスジャパンに移ったのが2000年ですね。

 

 

立ち上げたばかりということは、社内はベンチャーのような雰囲気だったのでしょうか?

池照:ええ、ブランド自体はそれ以前から代理店がライセンス契約で取り扱ってくださっていたので既に知られていましたが、社内の雰囲気は完全にベンチャーでした。そのうえ、2002年の日韓ワールドカップに向けて社員は3倍に、店舗も2倍に増やそうというタイミングだったので、人事という部門にとってもチャレンジングな時期でした。こんな状況での仕事はなかなか経験できないチャンスだと思って入社を決めました。

 

ただ、転職直後に子供に恵まれ、結局アディダスに在籍していたのは1年と少しでした。入社してすぐに人事制度を改革するプロジェクトを立ち上げ、外部のお力も借りながら将来を見据えた“育児制度も含めた制度改定”を進めていきました。「将来の人員増に向けて、子育て社員も就業可能な制度をつくる!」と人事のシニアマネージャーとして役員の前でプレゼンしました。なんと、そのプレゼンの翌日に自分の妊娠がわかったのです。

 

 

まるでご自身のために制度を作ったかのような、驚きのタイミングですね!

池照:客観的に振り返ると本当にその通りなのですが、当時の私は妊娠がわかった瞬間に「ここで働きながら出産・育児をするのは絶対に無理だ」とすぐに思いました。

 

子供をずっと望んで不妊治療も受けながらの妊娠だったこともあり、「せっかく授かったからにはしばらく子育てに集中したい」という想いもありました。当時のアディダスにはまだ妊婦さんやワーキングマザーはおらず、みんながブランドの構築に向けて夜中まで働くようなまさにベンチャー企業でしたから、制度があるからといって自分だけ早く帰るような働き方は選べないなと。フランス人の社長には「なんで?」と百回くらい聞かれましたが、私はどうしてもいったん退職する選択しか取れなった。それで結局1年で退職しました。私個人は自分の意思を通したことになりますが、人事の責任者としては大きな失態です。制度だけ作ってそれを活用できるような風土作りや社員の意識醸成といった部分は全うしなかったのですから。この反省はその後のしくみや組織作りに、とても意味のある経験となりました。

 

出産を機に退職し、MBAを取得して独立

 

ご出産後、独立するまでにはどのような経緯があったのでしょうか?

池照:“3歳児神話”がまだまだ聞かれる頃でしたし、私自身もしばらくは息子との時間を堪能させてもらいました。でも神様は見ているなと。そんな時に、以前の転職活動でお世話になったヘッドハンターさんがファイザー日本法人のダイバーシティ関連の担当というポジションのお話を持ってきてくださいました。

 

ただでさえハードルの高い出産後の再就職先として、人事の経験も活かせる上に自分が当事者の一人でもあるダイバーシティ関連の仕事をができる機会。保育園も決まっていない状態でしたが「体制を整える期間として最初の3か月間は週3回勤務にしてほしい」とお願いし、契約社員として入社しました。

 

 

なるほど。2002年頃だとすると、かなりフレキシブルな働き方ですよね。

池照:そうですね。働き方に関する申し出を受け入れていただいたこともありがたかったですし、契約社員といっても正社員と同様に私が力を発揮できる仕事をアサインしてくださったこともありがたかったです。時には家に仕事を持ち帰ったりしながらもとても充実した日々を送らせていただきました。働く時間が短い分、集中した仕事の仕方に挑戦できたのもこの時期でした。時には、契約社員の私が会議に出たり、いわゆる“正社員の補助”ではない業務を担っていたりするのは受け入れがたいという反応もありましたが、あまり気にせずに、ダイバーシティや企業価値の推進という仕事を進められたこともよかったです。何しろ“多様な人材をいかす”ことは、私の役割の本質でしたから。その後、グローバルのプロジェクトで評価や報酬制度の改革を社内コンサル的に担う部署で仕事をしたことも、結果的に今の仕事につながるいい経験になりました。

 

その後、日本ポールというアメリカの消費財の会社でも1年間働き、その頃に「自分にはインプットが足りない」、「もっと学びたい」という気持ちが芽生えてきたのをきっかけに仕事を一旦辞めてMBAを取得することにしました。前職時代の元上司から「いずれ経営の勉強もした方がいい」というアドバイスをもらっていたことをもがずっと頭に残っていましたし、息子はも2、3歳になっていて「勉強するなら保育園時代の今だ!」と。早速、保育園に預けながら通える社会人大学院を探して準備を進めました。夫には合格通知を受け取った日に初めて「来年から仕事は辞めて大学院に行くからよろしくね」と伝えました。ものすごく驚いていましたが、「君らしいね」という反応でした。

 

 

素晴らしい行動力ですね!ご主人もさぞかし驚かれたでしょう。MBA取得後は、そのまま独立されたのですか?

池照:結果的にはそうなったのですが、当初はどこかの企業に就職するという選択肢しか頭にありませんでした。もともと会社という組織で働くのが大好きでしたし、MBAも組織の中でより影響力の大きな仕事をすることを目的としていましたから。

ところが、就職活動をする中では自分の目指す働き方が実現できる会社とはなかなか出会えませんでした。私の中で譲れなかった軸は「週2回は息子と夕食をとれる生活をする」「できるだけ経営に近いところで人事の仕事をする」の2つ。2005年当時は“ワークライフバランス”という概念もまだ言葉だけが独り歩きしているような中で、譲れない2つを実現するのは難しく感じました。

 

そんなこんなで卒業間際まで先が見えずに焦っていた時に思いついたのが起業でした。大学院時代、前職の先輩方から頼まれて仕事の手伝いをしたことが何度かありました。ある時にふと「もしかしたらこれが仕事になるかもしれない」と思ったのです。つまり、何か確固たる野心があったわけではなく子育てと仕事の両立を目指した働き方が「独立」だったんです。大学院を卒業する1ケ月前からあわてて開業の手続きをはじめ、卒業する3月に開業するという、本当にドタバタでした。

 

 

女性にとって非常に背中を押されるお話です。ただ、多くの場合、そうやって壁にぶつかった時に仕事と子育てのどちらかを諦めてしまうのではないかと思うのですが、池照さんが諦めずに独立に踏み切れたのはなぜだったのでしょうか?

池照:一つは単純に楽観的だったということがありますが、もう一つ理由があるとすれば、フォード時代にアメリカ本社の同僚からICの話を聞いていたことが挙げられると思います。当時日本では個人のコンサルというと弁護士や社労士といった士業の先生方がほとんどでした。しかし、アメリカには「教育」や「採用」など、人事の各領域に対して専門性を持った個人コンサルが存在するという話を聞いていました。

 

大学院卒業を前に進路で悩んでいた時にそれをふと思い出し、「今後日本でもそういう仕事が必要になるはずだ」、「自分の経験上、少なくとも外資系企業の人事部門には何らかのニーズがあるはずだ」と確信しました。数名の先輩に独立の相談したところ、「それならうちで仕事をスタートして」と声をかけていただき、本当にありがたい起業スタートとなりました。そこから、ありがたいことに多方面からお声がけいただき、12年間続けさせていただいています。

 

言葉の再定義でICとしての仕事の楽しさに開眼

 

独立されたのは2006年とのことですが、当時はまだICという言葉もなく、そのような働き方自体もほとんど認知されていませんでしたよね。ICとして活動する中で悩んだり苦労したりしたご経験があれば教えてください。

池照:働き方という点では、確かに初めのうちはほとんど理解してもらえませんでしたね。元上司や元同僚に独立の挨拶に行っても、派遣と勘違いされたり「子育て中だし仕事のレベル下げるのも仕方ないよね」という反応をされたりしました。両親に至っては「いろいろな会社にパートで行っている」という程度の認識でしたから。それでも最初の数年は目の前にある仕事をただ一所懸命にこなしていただけです。ICとしての立ち位置という面で悩んだのは3年目でした。ICは日本語では「独立業務請負人」、つまり「請け負った業務を納品する」という意味です。初めの2、3年はずっとその通りの仕事をしようと必死でした。ところがある日、元上司から「お前つまらなくなったな」と言われたのです。衝撃でしたが、確かに自分は「つまらなく」なっていたんです。結果的にはその一言が悩みから解放されるきっかけになりました。

 

考えてみれば、仕事の声かけを下さる方の多くは元上司や元同僚で、会社員時代には役割の枠を外れてもどんどん新しいことに挑戦していた私に期待して呼んでくれていたのです。受けた仕事をきちんと納品するだけの私では物足りないわけです。「IC」という言葉を字面通りに受け止めすぎて自分で自分を抑えてしまっていた。このことに気づいた私は、IC=「インディペンデント・コラボレーター」、もしくは「インディペンデント・クリエイター」に自ら定義をし直そうと思い立ちました。ただ自らの役割の定義を言い換えただけなのですが、本当に仕事が楽しくなったのはそれからでしたね。

ですから、現在も一人でやっているプロジェクトはほとんどありません。大抵は外部の企業とコラボレーションしていたり、私がプロジェクトリーダーになって他のICの方々を束ねて進めているものもあります。当時はICを辞めてそのまま組織に戻ろうかとも悩みましたが、それで戻っていたら組織の方々にも失礼。それにきっと上手くいかなかったでしょう。あの一言のお陰でその後の10年があると確信しています。

 

 

お話を伺っていると、言葉の定義を捉えなおすなど、その「思考の柔軟さ」こそが池照さんの大きな武器なのだなと感じます。最後に、今後独立を目指しているビジネスパーソンに向けたアドバイスがあればお願いします。

池照:人事を含め、管理系業務に携わっている方の多くは仕事をプロジェクトベースで考える機会が少ないのではないかと思います。そういった方にお勧めなのが私自身が考えたプロジェクトを進めるうえでの“ニコワーク”です。「Objective(目的)」「Output(成果物)」「Success factor(何をもって成功と見なすか)」「Timeline(納期)」という4つの指標を明らかにすることです。そうすることで、あらゆる仕事は目的達成をめざしたプロジェクトベースで整理し考えることができますし、周囲を巻き込んで進める際のブレもなくなります。

 

私はすべての仕事をこの方法を使ってプロジェクトベースで進めています。それぞれの文字の最初のアルファベットを並べると「ニコニコな顔」になります。“自分が携わる仕事は笑顔でおわらせる!”、そんな想いをこめて“ニコワーク”と名付けています。ぜひ、みなさんにも“ニコワーク”を活用していただき、会社も社会も笑顔プロジェクトでいっぱいにしていきたいですね。

 

 

本日は貴重なお話をありがとうございました!

女性ならではのライフイベントを常に前向きに捉え、生き方も働き方も諦めずにご自身で道を切り開いてこられた池照さん。インタビュー終盤には「どんな出来事も、自分が“楽しかった”と定義してしまえば楽しかった思い出になる。そうやって過去を美化する能力も意識的に磨くことができるし、磨けば才能になるのです」とおっしゃっていました。「ICという言葉を自分なりに定義し直したら仕事が楽しくなった」というエピソードと重なり、非常に心に残る言葉となりました。

 

理想の生き方を諦めないために独立した池照さんのような働き方は、今後ますます選択しやすくなってくるでしょう。私たちみらいワークスもまた、一人でも多くのビジネスパーソンがプロフェショナル人材としてそのような未来を目指した挑戦ができるプラットフォームを目指し続けます。