「就社」から「就職」へ。その転機は地元へのUターンだった。成長し続けるWEBマーケターが体現する、仕事の幅の広げ方
思い描いていたキャリアを断念しても、ビジネスパーソンとしての道が絶たれるわけではない。強い気持ちさえあれば、人はどこででも成長できるのかもしれません。
みらいワークスがお届けする「プロフェッショナリズム」、今回のインタビューは喜屋武(きゃん)盛智さん。
大手メーカーを経て地元沖縄にUターン後、友人との起業のため再度上京。その後はWEBメディア業界でさまざまな経験を積み、2018年からフリーランスとして活動していらっしゃいます。
新卒で入社したメーカーをご家庭の事情で辞めた際、一度は進むべき道を見失ったという喜屋武さん。どのようなきっかけでWEBメディア業界を志し、どんな経緯で独立するに至ったのか?
壁にぶつかっても諦めず、常に成長できる場を探し続けた喜屋武さんのストーリー、ぜひご一読ください。
喜屋武 盛智
今回のインタビューにご協力いただいたプロフェッショナル人材・コンサルタント
大学卒業後、大手メーカーでの営業やコールセンターでのスーパーバイザーを経て、2006年にWEB業界へ転身。企画・マーケティング領域で活動し、キャリア公式サイトの複数立ち上げや200万人以上の大規模会員組織の構築、月間1.5億PVの検索ポータルサイトにおけるトップページ編成、複数ECでのUI/UXデザイン・マーケティング部門のマネジメント等を幅広く手掛ける。2018年より兼業フリーランスとして活動を開始。2020年、株式会社チョイシーズを創業。 ◆株式会社チョイシーズ:https://choiceeees.com/
喜屋武 盛智
20代で大企業を退職して地元沖縄にUターン
フリーランスとしてWEBマーケティングの戦略立案から実行までを手掛けていらっしゃる喜屋武さんですが、新卒時はどのような観点で企業選びをしたのでしょうか?
喜屋武さん(以下、敬称略):大学を出て3年半は“パナソニック”にお世話になったのですが、志望動機は「憧れていた会社だったから」ですね。世界的な企業だからというのもありましたが、とにかく「人」を大切にしてくれる会社というイメージがありました。
それに加え、当時は「デジタル家電」というキーワードが世の中に登場し始めた時期で、例えば「外出時でも携帯端末などで冷蔵庫の中身が分かり、効率的な買い物ができる」とか「トイレの便座に腰かけただけで体調の良し悪しが分かり、思わしくなければそのままオンラインでかかりつけのドクターとオンラインでやり取りできる」とか・・・そういう、当時としては夢のある仕事ができるのではないかという想いもありました。
実際に入社してからはどのような業務を担当していたのですか?
喜屋武:自治体や官公庁向けのシステムを扱う部門に配属され、最初の2年はSE、その後は営業を担当していました。営業時代は非常に充実していたのですが、家庭の事情で地元の沖縄に帰らなければならなくなり、入社後3年半で退職することになりました。
先ほどもお話した通り、憧れて入った会社でしたし、誰もが知っている大企業の一員であることに誇りも持っていたので、辞める時はかなり迷いました。未練があるものの家庭の事情も待ってはくれず、結局退職を決めたのですが、辞めた後もしばらくは「自分はもうだめだ」、「ドロップアウトしてしまった」という気持ちで悶々としていましたね。まぁ、今考えれば単なる虚栄心なのですが、当時は辛かったのを今でも覚えています。
それは、「生涯この会社に骨を埋めるのだ」という感覚だったからでしょうか?
喜屋武:そうかもしれません。実際には、辞めた後にお世話になった会社で仕事の幅はかなり広がりましたし、影響を与えてくれる人にも多く出会うことができ、素晴らしい環境だったのですが、当時は若かったこともあり「大きな組織の中で輝きたい」という気持ちがあったのでしょうね。
若い頃にそういった気持ちが生まれるのはすごく分かります。沖縄に戻った後はどのようなお仕事をしていたのですか?
喜屋武:最初に勤めたのは気象情報サービスを提供する会社でした。営業として採用していただいたのですが、入社して沖縄の営業所に配属されてみると、一人オフィスで自分しかおらず(笑)。でも、そのおかげで「一人で何でもやらなければならない」という覚悟を持つことができましたね。
その後、東京を本社とする通信販売の受注センター機能を請け負う企業に転職し、そこで初めてマネジメントを経験させていただきました。先ほどの気象情報サービス会社ほどではありませんでしたが、やはり少人数で運営している会社だったので、オペレーターのマネジメントから会社経営に近い部分まで携わらせていただき、その経験で仕事の幅は大きく広がりました。
友人との起業を機に再上京し、その後WEBメディア業界へ
規模の小さな会社に入ったことで逆に仕事の幅が広がるというのは、大企業にいた時には想像できなかったことでしょうね。沖縄に戻られて1年半後に再度上京されたそうですが、それは何がきっかけだったのですか?
喜屋武:上京のきっかけは、パナソニック時代の友人に「一緒に会社を作らないか」と誘われたことでした。シェアハウスの運営を行なう会社をその友人と共に立ち上げ、ビジネスモデルの策定から会社設立の手続き、会社運営にあたってのインフラの整備に携わりました。とはいえ立ち上げ当初はなかなか事業がうまく回らず、結局半年くらいで僕は抜けたのですが、その時の経験は非常に大きな財産になりました。今でもその友人には感謝の気持ちでいっぱいです。
今でこそ「立ち上げ時点でホームページがあること」も「WEB広告を出すこと」も当たり前になっていますが、当時は2005年で、まだそういう時代ではありませんでした。法人登記が済んでから、「あれ?お客さんってどうやって集めるんだっけ?」と気付くような状態で(笑)。とても苦労したのを覚えています。
一緒に起業した友人は非常にストイックで、かつ事業への熱い想いも持っており、結果としてその会社はその後軌道に乗り、今では東京だけでなくさまざまな地域に多くのシェアハウスを運営しています。ですが当時の僕は、集客がうまくいかなかったこと、その結果自分が経営から抜けざるを得なかったことがとても心残りで、力になれなかったことが申し訳なくて。それがきっかけで「人を集められるようになりたい」と強く思うようになりました。
規模の小さい会社を経験して仕事の幅が広がっていたとはいえ、起業となるとなかなか初めからうまくはいかないですよね。「集客ができるようになりたい」という想いで選んだ次の道はどのようなものだったのでしょうか?
喜屋武:今でこそ当たり前ですが、まずは「集客ならインターネットだろう」ということで、インターネットメディア事業を手掛ける会社にお世話になりました。
当時はドコモのiモードのような携帯キャリアごとのサービスにサイトを載せることが一番メジャーな集客方法だったので、そのためのサイトを作るというのが主な仕事でした。各キャリアの担当者に膨大なページ数に及ぶような企画書を出して、企画が通ったらサイトの設計をし、エンジニアとデザイナーと組んでサイトを立ち上げる。未経験で飛び込んだ業界だったので大変な思いもしましたが、自分が立ち上げたサイトが何十万人という規模の会員組織に成長していくのを見るのはとても嬉しかったです。
その会社には2年間在籍していたのですが、より多くの人にサイトを見に来てもらうためにUIやUXに気を配るなど、WEBメディア業界で働くにあたっての基礎の基礎を勉強させていただきました。
そこから転職しようと思ったのはなぜだったのですか?
喜屋武:2年間で基礎が身に付くと、いわゆるポータルサイトのような大きなメディアに関わってみたいという欲が出てきました。そこで、老舗のポータルサイトを運営していた通信系の企業に転職しました。
そこでは希望していた通りポータルサイトのトップページ担当になれたのですが、自分が担当しているコンテンツのことだけを考えていればよかったそれまでの仕事とは違い、サイトを俯瞰し、かつ世の中の動きも鑑みてコンテンツの編成をする必要があるので、初めは本当に苦労しました。
例えば、Q&Aや不動産、占いなどの各サービスの担当者からの希望を取り入れつつ、サイトの収入源である広告を出してくださっているクライアントにも配慮しなくてはならないわけですが、当然のことながら関係者全員の希望を叶えることはできません。「メディアのため、そしてユーザーのために、今優先すべきことは何なのか」を常に考えるというのは、編成の難しさであり、やりがいでもありましたね。また、人気のある漫画やアニメとのコラボレーションやSNSとの連携など、さまざまな企画を打ち出してサイトに人を呼び込む仕組みを考え続けたことも、その後の自分にとって大いに糧になる楽しい仕事でした。
組織に属さずに働くビジネスパーソンに触れたことで、フリーランスとしての独立を決意
フリーランスとして独立することを考え始めたのはいつ頃だったのですか?
喜屋武:いわゆる「正社員」以外の働き方もあるんだなと感じ始めたのは、そのポータルサイトの後にお世話になった電子書籍ECの会社にいた頃です。そこで広告の管理やサイト分析をするマーケティング部門のマネージャーを任せていただきました。
2014年、ちょうど電子書籍が盛り上がってきた時期だったのですが、非常に仕事のできる上司のもとで、真っ当なサイト改善のフローを回してグロースハックを行なっていくという取り組みを初めて経験しました。その時に、業務委託契約で参画してくださる社外の方々と一緒に働くという経験を、本格的には初めてさせていただき、「社員でなくてもクオリティーの高い仕事はできるんだな」と感じました。
個人で仕事をしている方々と実際に協業することで、ご自身にとっての働き方の可能性が広がったのですね。その後、実際に独立したきっかけは何だったのですか?
喜屋武:電子書籍ECの会社の後、マネージャーで終わるのではなく経営層を目指したいと思い、ネット占いを手掛ける企業や、アパレルECを運営する企業にお世話になったのですが、結果としてその2社を経験したことが独立のきっかけになりました。
ネット占いの会社では5部門ほどを一人でマネジメントしていたのですが、組織が過渡期だったこともあって人の入れ替わりが激しく、非常に大変な思いをしました。その影響もあり、「組織の中で上のポジションを目指す」と言うことだけが本当に正しい働き方のスタイルなのだろうかと考えるようになりました。
そんな気持ちを抱えて転職したアパレルECの会社でも、マーケティングの部長として経営層とメンバーたちとの間に立つという経験が多く、双方のニーズを両立して叶えられず、辛い思いをすることもありました。次第に「フリーランスとして独立し、社内の立場ではなく、クライアントやユーザーにしっかりと向き合って仕事をする方が自分には向いているのではないか」と思うようになりました。
フリーになった方が年収も上がるだろうという自信もあったものの、「果たして本当に継続的に仕事を獲得できるだろうか」という不安も大きく、すぐには踏み切れませんでした。最終的には昔からお世話になっている方が「うちから最初の仕事を出すから」と背中を押してくださったのをきっかけに独立し、その方からのお仕事はいまだに続けさせていただいています。
ありがたいですね。では独立当初はそのお仕事だけでスタートしたのですか?
喜屋武:いえ、その案件をやりながら、週3日勤務で正社員として雇用してくれる会社でも働いていました。最初から完全なフリーランスになるのはやはり怖く、リスクが大きいと感じたので(笑)。
そんな二足の草鞋を履く働き方を1年ほど続けて、「フリーランスとして受注する案件だけで食べていける」という自信が出てきた時点で正社員の仕事は辞めました。ただ、現在はその会社からもフリーランスとして引き続きお仕事をいただいているので、本当にありがたい限りです。
契約形態が変わっても取引を続けてもらえるのは嬉しいことですよね。今後の展望や目標などがありましたら教えてください。
喜屋武:まずは近いうちに“法人化”したいなと思っています。クライアントが仕事を依頼しやすい状況にするためでもありますが、将来的には「受託系のお仕事だけでなく、独自のサービスを作りたい」というのも理由の一つです。規模の大きいことをしようと思った時に、どうしても法人であることのメリットが大きく関わることもあると思うので。
もっと先の目標として、「子供たちの選択肢を増やす」という観点のサービスが作れたらいいなと思っています。まだ何も始まっていないので夢のような話にはなってしまうのですが、沖縄に生まれ育って、「お金がないので進学できない」「働こうにも沖縄の中でしか働けない」「どんな選択肢があるか、さまざまな事情の中で想像することができない」、そうやってずっと、選ぶのではなく目の前にある道を歩くことで生きていくしかないという状況を、周囲含め目の当たりにしてきました。そういった状況に置かれている子供たちの状況を解消するようなサービスが作れればと思っています。
「幸福になるか不幸になるかは選択肢の数で決まる」と私は思っています。たとえ失敗しても、数ある選択肢の中から自分で選んで失敗したのであれば不幸ではないはずです。だからこそ、選択肢を増やす取り組みをやってみたい。
何ができるか、まだいくつかのアイディアを温めている段階ですが、ぜひ今後ダイナミックに挑戦してみたいなと思っています。
本日はお忙しい中、貴重なお話をありがとうございました!
大企業を辞めた時に一度は道を見失いかけたものの、飛び出した先には常にまた違う世界が待っていたという喜屋武さん。後ろ向きにならずに成長できる場を探し続け、チャンスを確実につかんでスキルアップにつなげてきたからこそ、今の喜屋武さんがあるのだと感じました。
人生100年時代と言われる今、喜屋武さんのように積極的な挑戦を続けられる人こそが、より楽しく、豊かに生きられるのかもしれません。