「人との対話」が未来を創る 人と出会い、話すことで自分だけの事業にたどりついた起業家の挑戦
悩みながら模索した、納得できる働き方とやるべき事業。人との対話を通して考えを深めた起業家は今、対話で社会を変えようとしています。
みらいワークスがお届けする「プロフェッショナリズム」、今回のインタビューは曽志﨑寛人さん。商社、コンサルティングファームを経て創業期のベンチャーに参画。その後独立し、現在は音声コンテンツを通じた新しいマーケティング手法の創造に取り組んでいらっしゃいます。
起業家として順風満帆なキャリアを築いてきたように見える曽志﨑さんですが、新卒で入った商社でも、2社目のコンサルティングファームでも、歩むべき道を模索して悩み、独立後も事業テーマがなかなか決まらず苦しんだ時期があったとのこと。そこから現在に至るまでには、どのようなストーリーがあったのでしょうか。
独立、起業を決断できずにいる人にも、そして独立したものの行き詰まりを感じている人にも、多くのビジネスパーソンの心に響くインタビューになりました。ぜひお読みください。
曽志﨑 寛人
今回のインタビューにご協力いただいたプロフェッショナル人材・コンサルタント
慶応義塾大学商学部卒業後、JFE商事、アクセンチュアを経て、ベンチャーの立ち上げに参画。Webメディアの事業開発責任者として、Webサイト開発や SEO を中心としたマーケティングに携わる。2018年1月に合同会社Submarineを創業し、音声コンテンツプロダクション・音声コンテンツを活用したマーケティング支援事業「PROPO」を立ち上げ・展開中。 ◆音声コンテンツ制作プロダクション・マーケティング支援事業「PROPO」:https://propo.fm/
曽志﨑 寛人
将来の起業を視野に商社からコンサルティングファームに転職
音声を通じたメディアコミュニケーションのマーケットを創造すべく精力的に活動されている曽志﨑さんですが、独立はいつ頃から考えていらしたのですか?
曽志﨑さん(以下、敬称略):大学時代はサッカー一筋で目の前のことに夢中だったので、独立を考え始めたのは社会人になってからです。
就職活動の際は、大学の先輩方の影響で商社を受け、鉄鋼業界の専門商社であるJFE商事に入社しました。当時は「商社と言えばグローバル」という印象が強く、商社がとてもキラキラした就職先に見えたのですよね。なにせミーハーでしたから(笑)。
入社後は、鉄鋼コイルの受注管理・納品管理が新入社員の僕の仕事でした。国内営業として名古屋に配属され、ヘルメットをかぶって工場へ行き、納期に間に合うよう工場現場の方々に頭を下げ、加工された何十トンという製品を大型トラックで納入してもらう。学生時代に抱いていた「商社マンになって30代で海外に駐在して・・・」というイメージとは程遠いものでしたが、その当時は毎日が必死でした。
一緒に働いていた先輩方や同僚は楽しい人ばかりでしたし、派手な飲み会をするいわゆる“商社的”な雰囲気も好きです。ただ、入社後半年が経ち、仕事の流れもひと通り見えてくると、「このままここで過ごしてもいいのだろうか?」という気持ちがふつふつと湧いてきました。この先自分が歩むであろうキャリアも漠然と見えてくるものの、「意志を持って、このキャリアを極めて行く」というイメージが持てない。そんな中で、将来の選択肢の一つとして考え始めたのが“独立”でした。
商社がキャリアのスタートだったのですね。独立してやってみたい事業もその頃から決まっていたのですか?
曽志﨑:具体的にやりたいことは決まっていませんでした。ただ、大学時代の研究テーマが「オープン・イノベーション」だったので、学んだことを活かして何かを成し遂げたいという想いと、「自分でテーマを決めて人を巻き込んで事業を興せるようなビジネスパーソンになりたい」という漠然とした気持ちは持ち続けていました。
とはいえ、独立といっても何から始めればいいのか見当もつきません。とりあえず、柳井正さんと大前研一さんが対談している本で言われていた「これからの時代は、英語とITと会計だ」という話を鵜呑みにし、まずはプログラミングを身に付けることにしました。大学時代にホームページを作っていた経験があるので、このタイミングで学び直してみようと。
職場は名古屋でしたが、いずれ起業するなら東京の空気から離れすぎない方がいいと思い、週に一度、渋谷のスクールに通ってプログラミングを勉強。受講しているコースが終わったら転職についてもきちんと考えようと思っていたのですが、たまたま電話のかかってきたエージェントに登録し、実際には通い終わらないうちに話が進み、アクセンチュアへの転職が決まりました。
名古屋から東京のスクールに通うというのは素晴らしい行動力ですね。コンサルティング業界に転職しようと思ったのはなぜだったのですか?
曽志﨑:先ほどの「英語、IT、会計」を鍛えるというのが理由の一つでした。ここで3年間頑張れば、また次のチャレンジにつながると思ったのです。
もう一つの理由は“リベンジ”でした。実は新卒の就職活動時にアクセンチュアを受けたのですが、その時は落ちてしまったので、もう一度チャレンジできるなら今度こそ頑張ってみたいと。
なるほど、そういう意味ではコンサルティングファームはうってつけですね。アクセンチュアではどのようなプロジェクトをご経験されたのですか?
曽志﨑:会計システムの部署配属だったので、自動車メーカーに始まり、省庁、ガラスメーカー、証券会社、通信会社など、業界を幅広く経験させていただきました。
入社して1年半経った頃には新卒研修も担当しました。当時は人前でのプレゼンに全く自信がなくて。内心、新入社員に舐められないかなんて、不安もありました(笑)。彼らから良い反応が返ってきた時は心底ほっとしましたね。社内に知り合いが増えるきっかけにもなり、非常に良い経験になりました。その後、シンガポールとフィリピンでのプロジェクトも半年間経験しました。
コントロールできる環境と自分にしか創れない価値を求めて独立
アクセンチュアでコンサルタントとして上を目指すという選択肢はなかったのですか?
曽志﨑:考えた時期もありましたが、「昇進したところで自分の中に何が残るのだろう」という疑念を最後まで払拭できなかったんです。職位、お金、名声・・・仮に昇進してそういうものを手に入れたとしても、自分が「あぁ、良かったな」と満足できるイメージは持てませんでした。
コンサルティングファームでは、プロジェクトを自分で選ぶことができたりします。しかし、「これ!」といったプロジェクトと出会うことはできませんでした。自分の評価が、自分の意思でコントロールできない環境や事情に左右されるわけです。これは非常に歯がゆいことでした。
もちろん、多くのプロジェクトを経験したことにはメリットもありました。新しい環境にキャッチアップする力も身に付きましたし、短期間で期待されている以上の成果を出すためのトレーニングを積むこともできました。
とはいえ、アンコントローラブルな状況で頑張り続けるよりも、起業して自分の意思でコントロールできる環境で仕切り直したい。そんな想いは日増しに強くなっていきましたね。そこで、まずはベンチャーの空気に触れてみようと、大学時代の先輩が立ち上げた会社を週末ボランティアで手伝い始めたんです。
なるほど。ベンチャーは初めてのご経験だったと思うのですが、どんな印象を受けましたか?
曽志﨑:「ベンチャーというのはこうやって成り立っているのかぁ」という発見の連続でしたね。YouTuberなどのインフルエンサーと企業とのマッチングを手掛けるベンチャーだったのですが、シェアオフィスに入居していた大学の先輩は、とてもイキイキしていた姿を今でも覚えています。当時は僕の先輩とアルバイトの方の二人しかいませんでしたが、今では100人を超える企業になっています。お金で買えない体験ができ、本当に勉強になりました。
そこでのベンチャー経験がアクセンチュアを辞めて独立する直接のきっかけになったのですね。
曽志﨑:実は並行してもう1社、高校時代の先輩が立ち上げたベンチャーも手伝っていて、そこがアクセンチュアを辞めてから1年半ほど働いていた会社です。初めはエンジニアとして関わっていたのですが、事業開発の責任者として参画してほしいとオファーをいただきました。
当初は、先輩も僕も会社員として働きながら立ち上げ準備をしていました。 いろいろと大変でしたが、楽しかったですね。インターンの学生たちとも一緒に働いていたので、人のマネジメントもその時に学びました。面白くなければすぐに辞めてしまう学生たちのモチベーションをいかに保つか。明るく前向きで、とても優秀なメンバーと仕事を共にすることができ、最終的には僕が何もしなくても業務が回るようになりました。仕組みが整うまでは苦労しました。また、当時は、別のベンチャーのオフィスを間借りしていました。コーヒーを淹れたり、オフィスランチのお皿洗いを担当しながら、その会社のママさんたちには、とても快くしてもらいました(笑)。エンジニアの方々には、バグ対応にもお付き合いいただきましたね。
在籍中はコンテンツマーケティングに携わり、ウェブメディアビジネスについての知識も一通り身に付いたのですが、一方で、この事業に対する使命感を、自分で自分に説明がしきれない。自分はお金を稼いでいるだけではないか、という不甲斐なさも感じ始めていました。
会社を辞めてフリーランスになることを決断したのは、そういった状況と30歳を目前にした29歳という年齢から「これはいよいよ独立するタイミングが来たのかもしれない」と思ったからでした。
もちろん、辞めるときには、いろんな苦労がありました。ただ、アクセンチュアを卒業した後に、このような機会を与えてくださった先輩には、感謝しかありません。
「人との対話」で新たな価値を生み出したい
フリーランスになった後、お仕事はどのようにして獲得していたのですか?
曽志﨑:“人との縁”ですね。本当に、偶然のつながりで生かされてきたなと思います。
フリーになった当初、ビジネスモデルを考えなければと思うものの、パソコンと向き合っていても何も思い浮かびません。「そもそもアイデアはどういう時に生まれるのか」と考えたら、僕の場合は誰かと話している時が多かったので、まずは人と会って話をすることにしました。
ただ、ミートアップに参加するにも名刺が必要です。事業内容も決まっていなかったので、その数日前に書店で知って興味を持った“データドリブンマーケティング”をやっていることにした名刺を、パワーポイントで作り、ラクスルで注文して、できたてホヤホヤの名刺を持っていきました(笑)。すると、そこでたまたま名刺交換させていただいた方が、その分野のご専門だったんですね。その方が「もし今後この分野でやっていきたいのなら、とてもいい会社がある」と紹介してくださったデータ解析のコンサル会社があり、そこからいただいた案件がフリーランスとしての初めての仕事になりました。
やはり行動してこそご縁も生まれてくるものなのですね。具体的にはどのようなお仕事だったのでしょうか?
曽志﨑:コンサルタントとしてプロジェクトマネジメントを担当する傍ら、デジタルマーケティングを軸にした戦略立案にも携わりました。それまでもコンテンツマーケティングやSEOマーケティングの経験はありましたが、自分の知識の浅さを思い知りましたね。週3日の契約で稼働していたのですが、お金をいただきながらインプットもたくさんさせていただき、守備範囲が何十倍にも広がりました。
プログラミングといいデジタルマーケティングといい、ウェブ上で見ているだけではなく実際に誰かから学んだからこそ、ここまで来ることができた。そう感じることが多いので、人と直に話をする機会をいかに多く持てるかが、自分にとっては非常に大事だと感じています。
常に新しいことを学ぼうとされる姿勢が素晴らしいですね。インプットだけでなく、実際の現場でアウトプットもされているからこそ成長のスピードも速いのかもしれませんね。
曽志﨑:誰かから学んだことを別の誰かに教えるということの積み重ねが今の自分を作っているというのは確かにありますね。
実は現在取り組んでいる「PROPO」という音声コンテンツ制作を軸にしたマーケティング支援事業も、この「人と話すことの面白さ」について考えていた時にひらめいたアイデアに基づいています。
独立したものの、肝心の事業テーマは相変わらず決まらない。そんな不安定な生活の中、精神的な安定を求めて、早朝近くの公園までランニングをしていました。ラジオ体操を横目に走りながらいつもラジオを聴いていたんです。スポーツジャーナリストの中西哲生さんが担当の番組なのですが、年下の女性アシスタント高橋万里恵さんに朝からちょいちょいいじり倒されてて。ラジオなので目には何も見えないのですが、その様子がなんとも面白い。
毎朝それを聴きながらいろいろなことを考えていたら、ある時ふと「今やネット上には文字も写真も動画もあふれているけれど、人の話す声を生のまま楽しむ機会は実はまだ少ないのではないか」ということに気が付きました。ウェブ上には「話す」ためのメディアがないじゃないか、と。そんなときに「歴史・雑学」に明るく独立したてだった知人から、たまたまポッドキャスト番組を配信する誘いを受けて番組を作り始めたんです。その後、ロスの知人とも「デジタル・トランスフォーメーション」を軸にしたマーケティング番組を作りはじめました。
ちょっと脱線するのですが、実は東京の清澄白河で「ランニングと朝食」という活動をやっていて。家の近所の仲間と土曜の朝においしい朝食を食べに行くというゆるいランニンググループなのですが、その仲間の一人が、「インビジブル」というNPO法人のディレクターを務めていて。彼の手がけている東京丸の内のStartupHubTokyoの「文化起業家」というトークイベントに参加できたことも大きかったですね。ちょうど、既に音声コンテンツ市場で事業を展開されている株式会社オトバンクの上田渉さんのお話を聞くことができたのもそうですし、新しい事業を通じて「『耳で読む』を当たり前に」という新しい文化を提示する姿勢は、今でも強く心に残っています。
インターネットラジオですね。マネタイズはどのような仕組みなのですか?
曽志﨑:現在は経営者やマーケター向けの番組を配信しているので、聴いてくださった方からコンサルティングを依頼していただくこともあります。今後は、音声コンテンツ作りとそれを配信することによるリスナー獲得により、マネタイズの手段も徐々に増やしていきたいと考えています。人の声は文字以上に「想い」が伝わりやすいと思うので、コミュニティマーケティングにおける集客やアフターフォローと音声コンテンツは相性のいい組み合わせだと思います。
番組を録って配信することは誰にでもできる一方、定期的な企画や収録、編集に加えてそれをマーケティングに活かすための作業もして・・・となると、内製化するには意外と負担が大きいと思っています。ですので、その部分を請け負うという形で、まずは2019年内に10社分、10番組を作ることを目指しています。2020年内には日本で最も多くの番組を手掛けるプロダクションになるのが目標です。
非常に興味深い挑戦ですね。私たちも今後のご活躍を楽しみにしています。
曽志﨑:ありがとうございます。まだまだ試行錯誤の段階ですが、人と人とが向き合う機会が増えればもっといい社会になると思うので、「対話と向き合う、未来を創る」をモットーに、これからもチャレンジを続けていきたいと思っています。
本日は貴重なお話をありがとうございました!
心から納得して働ける環境と真にやりがいのある事業を求め、考えを深め続けた曽志﨑さん。「自分が今生かされているのは偶然の結果」だとおっしゃっていましたが、諦めずに考え続け、行動し続けたからこそ起きた幸運は、もはや努力の結果と言っていいのではないでしょうか。
インタビュー終盤には、収録用の機材を見せてくださりながら将来の展望を熱く語ってくださった曽志﨑さん。音声コンテンツを、想いの伝わるマーケティングに役立てていきたいという曽志﨑さんの挑戦を、私たちも応援していきたいと思います。