ハードな環境を乗り越え医療特化型コンサルタントとして独立 夢は医療とアートを融合する「メディカルアート」の普及
みらいワークスがお届けする「プロフェッショナリズム」、今回のインタビューは医療特化型コンサルタントとして活躍するFRACTAL株式会社代表取締役CEOの上野翔平さん。今ではさまざまな事業に挑戦し失敗を恐れない上野さんですが、その裏には数々の過酷な経験がありました。
上野さんはご家族の事情で突然アメリカの高校へ入学。一切言葉の通じない当時の環境を「本当にチャレンジングでした」と語ります。その後大学で遺伝子学を専攻し、1日15時間研究室に籠るというハードな研究を続けました。大学卒業後は外資系製薬会社を経て外資系総合コンサルティング企業のアクセンチュアへ。参画した大手企業のDXプロジェクトは今まで大学から医療分野に浸かっていた上野さんにとって、まったく別の世界でした。超優秀なアクセンチュア人材に囲まれ、ここでも大きなチャレンジに挑みました。
現在は独立し、医療とコンサルタントの知見を生かして医療分野に特化した会社を設立。その中で、医療・健康に関わるあらゆる事業のコンサルティング・新規事業立ち上げ支援を行ないつつ、アートを通じて医療現場の課題を解決する取り組み「メディカルアート」を立ち上げました。「独立や起業はリスクを伴い心身共に辛いこともあると言われますが、その辛さを圧倒的に上回る楽しさがある」と語る上野さん。数々のハードな状況をどうやって乗り越えてきたのか、今後の夢に向けてどんなチャレンジをされているのか、詳しくお聞きしました。
上野 翔平
今回のインタビューにご協力いただいたプロフェッショナル人材・コンサルタント
米国ミシガン州立大学で遺伝子学を専攻、台湾への中国語留学を経て、卒業後は製薬会社の日本イーライリリー株式会社へ入社。営業を経てブランド・デジタルマーケティング部門へ従事。その後アクセンチュア株式会社に転職し、経営コンサルタントとしてDXプロジェクトに参画する。2021年に独立後は、フリーコンサルタントとして医療系企業の戦略立案や実行支援を手掛ける。2022年にはFRACTAL株式会社を創業。医療機関経営支援や医療分野のコンサルティング、新規事業立ち上げに取り組むほか、アートを通じて医療機関の課題を解決する「メディカルアート」の普及に努める。
上野 翔平
岐阜の山奥からいきなりアメリカへ。言葉も通じない過酷な環境を乗り越えた
高校の卒業式 現地の友人たちと
アメリカの高校と大学を卒業されていますが、上野さんはもともとグローバル志向だったんですか?
上野さん(以下、敬称略):全くありませんでした。私が生まれ育ったのは岐阜県の山奥で、猿やイノシシに遭遇するようなところ。英語が一番苦手な科目でした。アメリカ留学のきっかけは、努力家の母です。当時母は小学校の教師でしたが、昔からアメリカで最新の教育論を学ぶことが夢でした。アメリカの大学院を受験し合格したタイミングで、私も一緒に行くことになり、日本の高校に上がるタイミングだったのでそのままアメリカの高校に入りました。
大学院を卒業し、母は2年で日本に戻りましたが、私はこの機会を逃したくなく、ホストファミリーを探しアメリカに残りました。アメリカの高校卒業後は、そのままアメリカの大学に進学しました。
いきなり渡米して現地の高校に通うとなると、大変なことも多かったのでは?
上野:最初は本当にハードでした。インターナショナルスクールや日本人学校ではなく、現地のアメリカ人が通う高校に入ったもので。何も聞き取れないし、伝えられない。今日の宿題が何かもわからない。渡米後最初の1年間は、まず全ての授業後、先生に今日の宿題を書いてもらい、帰宅後に母と何が宿題なのか辞書を引いて理解するところからスタート。それから深夜まで翌日に向けて宿題をこなす毎日でした。まさに自転車操業。その日その日を生き抜くことで精一杯でした。
アメリカの高校は4年間ですが、4年間続けるとなんとか英語が話せるようになる。この時、人間には高い適応能力があり、諦めずに続ければ多くの問題にも対応できるという思想が身につきました。発明家の偉人たちも「人生に失敗した人の多くは、諦めたときに自分がどれほど成功に近づいていたか気づかなかった人たちだ。」とよく言われますが、それをとても小さな体験ではありますが、学べたのはとても良いことでした。
高校在学中は、遊ぶ時間もなかった感じでしょうか。
上野:遊ぶ時間はほとんどありませんでしたが、もともと走ることが好きだったこともあり、陸上部に入りました。言語の壁が少ないので、楽しかったですね。高校の授業はハードでしたが、周りの人たちはすごく優しくて。部活のおかげもあって学校に馴染めるようになり、何とか高校を卒業できました。今振り返ると、4年間の高校生活を頑張れたのは、周りの環境のおかげもあると思います。そもそも異文化に寛容なアメリカだったからこそ、まったく英語が話せない私に対して、たくさんの人が親身になって助けてくれました。
大学では遺伝子学を専攻されたそうですね。遺伝子学を選んだ理由は何ですか?
上野:アメリカの大学は入るのは簡単で出るのが難しいと言われますが、実際その通りでした。入学式で学長から「あなたが卒業する時、今左右に座っている同級生はいません」と言われた事がとても印象に残っています。つまり、授業のレベルが非常に高く、単位取得も容易ではないため、入学者の1/3しか卒業できないという実績があるんです。
そのため、大学で学ぶべき分野は非常に悩みました。私は興味のある分野であれば寝るのも忘れられるタイプですが、一方で興味がなければまったく続けられない性格でした。大学の4年間、そしてそれ以降続く何十年という人生も、諦めずに情熱を持てる分野は何だろうと考えた時、絶対に人間が求め続け、必ず人々のためになると思われる「医療・健康」分野だと思ったんです。私が大学に進学したのは2009年でしたが、当時「分子標的薬」という異常ながん細胞だけを攻撃し、正常な細胞を傷つけない薬が話題だったこともあり、世の中の常識を変えられる分野に関わりたいと感じました。些細なきっかけではありますが、結果遺伝子学を選びました。
製薬会社でマーケティングに出会い、もっと外の世界を見たいと思うようになった
研究発表で最優秀賞を受賞した大学時代
大学卒業後は日本へ帰国し、イーライリリー株式会社に就職されています。どんな理由で選ばれたのですか?
上野:研究者になるつもりでしたが、正直言うと挫折しました。研究室に籠り、朝から晩まで1日15時間、それが4年間続く環境。そして、そのような環境で10年単位で身を投じたとしても、日の目を浴びない人が多い世界。医療という分野であっても、自分自身で結果を残すことができるか考えたとき、研究者の道を外す決断をしました。
そうなると、研究と反対にあるビジネスへ向くしかない。だから修士を取らずビジネスの世界に飛び込もうと思い、海外の学生向け就職イベントに参加しました。日本企業が300社程度ボストンに集まり日本の就活フローに乗れない海外学生を採用するのですが、そこで面接したイーライリリーの人事の方と意気投合し内定をいただいたので就職を決めました。医療分野へのキャリアの第一歩として革新的な新薬を開発し続けるイーライリリーに入ったことはその後の人生にとって大きくプラスでした。
イーライリリーではどんなお仕事をされていたのでしょうか?
上野:製薬会社では、まず新薬のセールスから始めました。医療業界に携わるうえで医療機関・医療従事者との関わりは重要です。セールス活動を通じて医療領域のビジネス構造の理解や、そこで働くさまざまな医療従事者の思いを知ることができました。
3年間セールス部門にいた後、マーケティング部門に異動しました。マーケティング部門では、革新的な新薬の市場認知度を最大化させるためにさまざまな打ち手を検討・実行していきます。その1つとしてセールス活動の指針も含まれます。ビジネスの下流でエンドユーザーへ商品の価値を直接訴求しキャッシュを生むことと、上流でプロダクトを世の中に浸透させるための戦略策定を行なうマーケティング、両方を経験できたことが広い視野を持つためには不可欠だったと思います。
マーケティングに異動したのはご自身の希望ですか?
上野:実は、希望していたわけではないです。製薬会社の場合、新卒入社後数年でマーケティング部門に異動することはほぼありません。経験豊富なセールスマンのうち、結果を残し続けたトップセールスのみがマーケティング部門に行けるような世界です。
一方で既存のルールに捕らわれず新しい血を入れて新陳代謝を促すという観点で、イーライリリーは業界の中でもいち早く若手にチャンスを与え、マーケティング部門に投入するというテストケースを行ない、その第1号が私でした。他業界から見れば遅い取り組みかもしれませんが、当時の製薬業界では珍しく、大企業でありながら新しい取り組みを次々に仕掛けるその姿勢に感動したことを今でも覚えています。
イーライリリーから転職されていますが、転職を考えたきっかけは何でしたか?
上野:製薬会社と一生を共にする道も十分にありましたが、セールスしか知らなかった自分の視野を広げてもらえたこともあり、もっと外を見たいと思うようになりました。さらに、本当の意味で医療業界に価値を提供しようとした際に、業界特有の固定概念に縛られると、新たな発想は出にくいとも思っていました。医療業界はそもそも、一般消費者ではない「患者」という特殊な顧客を相手にするため、医療業界の常識は他の業界での非常識ということもよくあります。だからこそ、一度外に出て他の業界でゼロから学び、そのうえで医療業界に持ち帰れるものを持ち帰ろうと決心しました。
これまでと全く違う業界のプロジェクトに参画。意識したのは外部人材こそ失敗を恐れないこと
みらいワークスオフィスでのインタビューにて
転職先にコンサルティング業界を選んだのはなぜですか?
上野:私は、さまざまな業界を見て「何が最先端なのか」とか「どういう経営が主流か」などを理解したうえで医療業界に役立つものを逆輸入しようと思いました。横断的に業界のビジネス構造を理解できると感じ、コンサルティング業界に飛び込みました。
また、もともと謎に包まれたコンサルティング業界という領域に興味を持っていたということもあります。製薬会社にいたときから「その業界で働いたこともないのに、コンサルタントに何ができるのか」と疑問に思っていました。コンサルティング料として大きな金額が動き、経営会議で理路整然と話を展開し帰っていく。彼らの真の価値を知りたいという思いがありました。実際にアクセンチュアで働いたことで、コンサルタントが企業に与える真の価値、そしてその価値提供の裏でコンサルタントが限界まで思考し尽くしアウトプットに落としていることを、直に経験できました。
アクセンチュアでは、それまでの医療分野とは別の業界に関われましたか?
上野:そうですね。大手小売り会社のDXプロジェクトに入りました。中期経営計画という未来を見据えた会社全体の戦略策定から、最新デジタルテクノロジーを使った新たな顧客体験の創出、マーケティングプランの検討、社内の業務効率化まであらゆる領域をカバーしました。ハードでは無かったと言うと嘘になります。日々表出する難解な課題に対してスピードと品質の両方を担保しながら、一切の妥協を許すことなく過ごす時間は精神的・肉体的にも常にキャパシティーを超えていました。
入社当初は複数の業界を横断的に見て回りたいと考えていましたが、結局アクセンチュアにいた3年間、同じプロジェクトにいました。いろいろな業界を見たいという思いもありましたが、結果的にこれでよかったと思います。同じプロジェクトにいたからこそクライアントからも上司からも信頼して頂き、より大きな仕事を任せてもらうことができました。
1社目の事業会社と違い、アクセンチュアでは外部の立場でプロジェクトに入っていたかと思います。外部人材として意識した点はありますか?
上野:やはりコミットメントが全てだと思います。見た目のきれいなビジョンなら、時間をかければ誰でも作れる。一番大事なのは、きちんと実行して結果を出して、PDCAを回して事業を磨き上げていくこと。事業の9割はこれだと思います。最初の立ち上げも大変ですが、全体で見たらその時間は1割にも満たない。結局クライアントが求めていることも、旧来の綺麗な戦略を描くコンサルタントではなく、戦略策定から実行までできる総合格闘家みたいな人材だなと思っています。
また、外部人材だからこそとれるポジションとしては、クライアント社内の評価制度や会社のルールにとらわれることなく、最も正解に近く、最短ルートを考えることのみに力を注げることだと思います。コンサルタントのアウトプットの品質を見て、クライアントは私個人を評価しますが、それがそのまま所属するコンサルティング会社内での評価につながるわけではないので、失敗を恐れなくていい。
もはや、クライアントもそれを求めているんですよね。ある大手企業のDX部長の方が「大手に関して言えば、もう自社の正社員から新規事業はでない。原則として外部に任せる」と語っています。これは社員のパフォーマンスが低いという意味ではありません。社員は社内の評価が給与やその後のサラリーマン人生に関わるので、リスクを負うには限界があるということ。だからこそ私たちのような外部の人間が、リスクを恐れず突き進む必要があると思っています。
医療とコンサルを経験できたから、独立後に人材としての希少性を持てている
インタビュー後 みらいワークスオフィスにて
その後フリーランスとして独立されました。どんな理由でフリーコンサルタントをやってみようと考えたのでしょうか?
上野:大企業という組織に守られ、「最悪のケースであってもだれかが守ってくれる」という環境を抜け出し、個人の戦闘力を磨き上げたいと思ったからです。そのためには環境を変え、退路を断つ必要があると感じ、転換しました。
一方で、ワークライフバランスを求める人にとっても、フリーランスはメリットがあると感じます。コンサルティング会社は基本労働集約型であり、その中で、より早く昇進を目指すためには、多くの時間を投下する必要があります。そうなると仕事と生活のバランスは難しくなります。一方でフリーランスはサラリーマン的な昇進争いを行なう必要が無いため、働く時間はクライアントと相談すれば調整できます。もちろんフリーランスにはリスクやデメリットもありますが。例えば、案件が取れなければ収入がゼロになるとか。
確かにフリーランスになると営業が大変という声も聞かれます。上野さんはいかがですか?
上野:私の場合、製薬会社とコンサルティングファームを経験したことで、人材としての希少性につながっているため、まったく苦労はしていません。他の業界と比較しても非常に特殊な医療分野のビジネス構造やステークホルダーとのかかわり方を理解しつつ、コンサルティング経験がある人は少ないということもありますが、フリーランスという立場上、大企業が手を出さない小規模な案件にもスピーディーに支援できるからかなと思います。
実際、世の中にはダイヤの原石になりうる事業がいくつもありますが、それを磨くことができず停滞している事業もたくさん見てきました。そこにはコンサルタントが10人も20人も必要ではなく、機動力と柔軟性のあるコンサルタントが2~3人いれば十分です。
ただフリーランスは社員と違って、契約が終われば仕事がなくなるリスクはあります。ただこれも考え方だと思います。「3か月後に契約を切られるかもしれないから不安ながら頑張ろう」という人は、たぶんフリーランスに向いていません。契約更新のとき、クライアントから「この人は放したくない」と思ってもらう、こういうスタンスとそれを裏付ける実績を取りに行くことが必要だと思います。
ご自身の強みをしっかり意識されているわけですね。上野さんはフリーランスになると決めてから、準備期間はどのくらいでしたか?
上野:3か月間くらいですかね。情報収集から始めました。コンサルでフリーになる人って、最初すごく不安なんです。ネットで調べると良い話ばかりで信憑性が不明です。エージェントからたくさん連絡が来ても懐疑的になっていました。みらいワークスさんのようにいい関係を築ければ最高のビジネスパートナーになりますが、合わないと感じるエージェントも多々いました。
だから人づてにフリーコンサルタントの方を探して、3人くらいにヒアリングしてみました。私の履歴書を送って「こんな人間ですがやっていけそうですか?」とか聞いたんです。そういう事前調査に1か月かけた後、エージェントと面談をしました。
自分が生きた証跡を残したいと思い起業、新会社では医療にアートを取り込む事業にチャレンジ
ビジネスの観点から医療現場の為にできることを、と立ち上げた「メディカルアート」のサービスページ
フリーランスとして活動した後2022年に起業されています。その理由を教えていただけますか?
上野:笑われるかもしれませんが、割と本気で自分が生きた足跡を残したいと思ったからなんです。コンサルタントは素晴らしい仕事だと思っています。ただコンサルティングファームの社員でもフリーランスでも、成果は自分のものではなく所属する企業、もしくは発注した事業会社のものになりますよね。もちろんそれに見合う対価をいただくのですが、世の中に自分のものとして残らない虚しさを感じていました。自分が死ぬまでには自分の証跡を残したいと思い、会社を作りました。
医療に関連する会社を立ち上げたのは、大学で遺伝子学を選んだ理由と全く同じです。会社経営がハードなのはわかっていたので、辛い時に諦めず、自分を鼓舞できる領域はやはり医療だと思いました。
その想いはぶれていないのですね。立ち上げた会社ではどんなことに取り組んでいますか?
上野:いくつか仕掛けていますが、その1つとして、メディカルアートがあります。メディカルアートは、医療施設にアートの要素を加えて、居心地の良い環境を構築するという考え方。ヨーロッパではすでに常識で、医療機関を建設する時、建設費の1%はアート的な要素に使わないといけない法律があります。どれだけ医療とアートの関わりが深いか、わかりますよね。
日本の病院って、無機質で暗いイメージがあるじゃないですか。そもそも医療機関は病気を持ってマイナスな気持ちで行く場所です。しかもほとんどの人が、生きている間に何度も関わるいわば社会インフラです。だからこそその空間は、本来は居心地がよくてリラックスできるところであるべきだと思います。患者さんにとっては当然ですが、昨今医療従事者不足が謳われる中で、ハードな医療現場で働く医療従事者にとっても意義があるものではないでしょうか。最終的には、患者さんや医療従事者が医療機関を選ぶ1つの基準になると考えています。
日本ではまだあまり知られていない概念ではないでしょうか。
上野:実は日本にも10年ほど前から団体・組織はありますが、残念ながら知られていません。これはボランティア的要素が強く、市場全体としてキャッシュが回っていないからと仮説立てています。例えばアーティストが無償や安価で作品を提供するみたいなことをしても、取り組みとしては美化されますが一般化されるわけないですよね。そんな業界を変えるべく、事業として取り組み市場変革を起こしたいと思いました。
一般的には欧州を中心に「ホスピタルアート」と呼ばれていますが、この表現ではホスピタル=病院に限定されたイメージになってしまいます。私は病院だけではなくてクリニックや介護施設などにもこの概念は必要だと思っているため、「メディカルアート」という名称で立ち上げました。
上野さんはどんなきっかけでメディカルアートの考え方に触れたのでしょうか?
上野:今一緒に取り組んでいる方から、教えてもらいました。フリーランスになり自分の時間が少し持てたタイミングで、いろいろな起業家の方と会いました。漠然と医療分野で自分の事業を持ちたいと思っていたところ、博報堂出身の方からこのテーマを聞きました。その方と一緒にメディカルアートを事業としてやろうという話になり、さらに歯科医師の先生にもジョインいただき推進しています。
また、私のバックグラウンドの中にもこの分野を盛り上げたいと思った理由があります。私は、青年期に「てんかん」を発症しました。これは突発的に数秒間意識を失う疾患です。当時は熱中症と間違えられ気づくまでに時間がかかりましたが、振り返ってみるとその際、早期に診断・治療頂いた先生には本当に感謝しています。疾患自体は命の危機には直接関与しませんが、発症場所(電車のホーム、高台など)によっては命の危険があります。
反面、当時は突然の発症により病院に連れていかれ、無機質な暗い部屋での検査に強い不安と恐怖を抱いたことを今でも鮮明に覚えています。今になり、「ホスピタルアート」というテーマに出会い、その目的に強く共感するとともに、私が青年期に感じていた医療現場に対する不安感を少しでも改善したいと思いました。
長いスパンで取り組む必要がありそうですね。
上野:その通りです。いままで浸透していなかったものを、当たり前の世の中にするためには本当に時間がかかると思っています。FRACTALで医療業界に提供できる価値として、メディカルアートだけではなく、医療機関・医療関連事業会社への経営コンサルティング・実行支援も並行して行なっています。多角的に医療業界にアプローチしながら、深く深く入り込んでいきたいと考えています。
今後も人口減少や診療報酬改定など、病院経営には多くの課題があります。一方で本当の意味で病院の経営支援ができる人はそれほど多くありません。コンサルティングというモノは資格職ではないからこそ誰もが簡単に名乗れてしまいます。特に医療という人の命に係わる領域において、質の低いコンサルティングは大事故につながりかねません。だからこそ私達が存在する価値があると思っています。
最後にこれから独立や起業などの挑戦を考えている方に向けて、メッセージをお願いできますか?
上野:起業や独立は楽しいことばかりではないけれど、それを上回る圧倒的な楽しさとわくわく感があります。それは外から見ていては分からないもので、実際にその世界に飛び込んでみないと感じられません。
また、当然挑戦に伴うリスクは無視できません。ただ世の中は確実に挑戦者を支援する土壌が整ってきています。今まではリスクと思っていたことが、リスクじゃない世の中になっていると私は思います。挑戦が当たり前となり、独立・起業が珍しいことでもなくなってきた今、その挑戦自体が評価となり、仮に失敗してもその経験を価値として買ってくれる企業は増えている印象です。
また、仕事がないリスクについてはみらいワークスさんを筆頭に、エージェント会社が増えていますので、自身が持つ強み・経験の中で個人で何ができるのか手伝ってもらえる時代です。いざとなったらまた会社員にも戻れる、出戻りOKな企業も増えてますよね。今まで私たちが独立起業に対してリスクと勝手に感じていたものは、既にリスクではなくなっています。このような社会変化を踏まえてご判断頂ければと思います。
本日は貴重なお話をありがとうございました!
「心が折れそうなとき諦めずに続けられるものは何か」を重視して、医療分野に進むことを決めたという上野さん。新たな挑戦を続けるだけではなく、挑戦を最後までやり切ることの大切さをあらためて教えていただきました。
また「独立・起業のリスクは、もはやリスクではない」というお話は、とても共感できました。みらいワークスでも、フリーから再度社員に戻りたくなったら転職できたり、地方へ戻りたくなったら地方案件を探せたり、プロ人材の方が挑戦しやすい仕組みづくりを目指していきます。